弔辞

社葬(代表取締役社長)の例

はかなき人生とは申しながら、今日の死を誰が予測し、想像できたのでしょうか。
○日の夕刻、商談を終えての帰り道、突如として襲った病魔はきみをして幽明境を異にした、永遠の旅立ちになろうとは、何故にきみは急いでいったのか、常日頃健康には人一倍注意し常備薬も携帯しておったはずなのに、私は今その信じられない現実に、ただ驚愕と痛恨に極まり、哀悼の言葉すら知りません。
顧みる時、○○大学の学生として○○○商店にアルバイトとして来た時、それがきみとの出逢いの始まりでした。私はすでに○○○商店の社員として勤務しておりました。
きみは親元の○○で仕入れをする水産物全般を勉強するためにアルバイトを始めた時でした。
そして○○年○○月、きみは大学を卒業と同時に水産業界で身を立てたいとの強い意志から、○○○商店に正式に入社されました。
以来○○年有余、きみとの強い絆が結ばれたのでした。
○○年○○市中央卸売市場の開設と同時にきみと私、そして○○君、○○君の四人の若者が将来への大きな夢を託して。○○○水産を設立しました。
営業全般が私、経理全般がきみと、それぞれの責任を分担し、勇躍その経営に乗りだしたものの、現実は厳しく困難の連続でした。
基礎づくりに寝食を忘れ、何日も会社に泊まりこんで奔走した日々、しかしきみは高校、大学と野球投手としてならしたねばりと、その根性を困難な局面にぶつかるほどに、遺憾なく発揮されたのでした。
量販店の取引開発は、きみの思案による功績にひとつです。
45年の量販店がようやく業界の話題となりつつあった頃、いち早くその取り引きも着眼したきみは、関東、関西、東北と奔走し、今日の我社における取り引き関係の大きな柱のひとつでした。
またきみは事務の合理化とコンピュータの導入に意欲を燃やし、業界に先がけてとり入れたのでした。
きみは常に時代の流れに注目し、将来の我社の発展に心血を注いだのでした。
50年優良法人として表彰されたことは、こうしたきみの努力の成果でもあります。
○○年突然として発生したアクシデントの対決については、きみは持ち前の根性と信念で、関係業者、金融筋の説得と協力をとりつけ、また全社員の結束もあらたに、みごと早期にその解決をはかったのでした。
そしてその時、きみと共に心から喜びあったその時が、今でも私の脳裏からはなれません。
また、思い起こすことは、昨年の、きみが病床にあった時、会社の発展と社員への活力を引き出し将来への大きな夢を実らすために、新社屋の建設構想を話しあったのでした。
そして「やろう」その一言でその建設が決まり、昨年○○月に○階建ての社屋の完成をみたのでした。
その時の喜びを思い起こせば、○○人で発足した当社が、○○人余の社員を有し年商○億円に発展したことは、きみという得がたい友があったればこそ、成し得たことであり、ただ、感無量の一言につきます。
ようやく○人の娘さんも成長され、嫁がれた長女の○○子さんのおめでたを目前にしつつ、あと○○日で考え、楽しみにしておったきみが○○家にとって喜びにひたるはずであったのに、50年の盛年期から円熟への道を歩み始めたきみが、その志し半ばにして、早々と黄泉に旅立たれたことは、生者必滅は世のならいとはいえ、かえすがえすも残念の一言に尽きます。
当社設立以来○○余年、代表取締役専務として、その重責をまっとうされ、苦楽を共にした数々が私の脳裏を走馬灯のようにかけめぐっております。
きみというかけがいのない友を得たことが、今日の私があるのであります。
その友を失った今、悲しみと失望が言葉ではいい表すことのできない、万感胸に迫る思いです。
後に残された奥様をはじめ御家族の悲しみはいかばかりかと、深くお察しあげると共に、当社の大きな支柱を失った悲しみに胸が一杯であります。
人生は無常なりと、命には限りありますが、きみが当社に残した数々の功績には後輩社員がこれを受け継ぎ、当社の発展隆昌のために努力まい進することを、ここにかたくお誓いするものであります。
○○君、長い間本当に御苦労様でした。
残された御家族は、私が必ずお守りすることをここにかたく、お約束するものであります。
どうぞ、安らかにお眠りください。
御霊の御冥福を心からお祈り申し上げて、お別れの言葉と致します。
さようなら。
平成○○年○○月○○日